私のおばあちゃんと言えば、母のお母さん。おじいちゃんは残念ながらすでに他界していた。
おばあちゃんの思い出をただただ書いてみた。
父の方は遠かったせいもあり、あまり行き来がなかったので。
泊まり
長野県にある母の実家には祖母が生きている間、夏休みには必ず泊まりに行っていた。
たぶん1~2週間。
母は、送りと迎えだけで、私と姉だけお世話になっていた。
母だけ帰るのを見送るときは必ず泣いた。カワ(・∀・)イイ!!
おばあちゃん困っただろうな。
おばあちゃんの詩
先日、NHKの朝ドラ『エール』でやったいたので思い出したが
🎵勝って来るぞと勇ましく~
という戦争の時の詩は、私のおばあちゃんが その部分だけよく歌っていたので覚えている。
あの歌、古関裕而さんが作ったんだと思ったのと同時におばあちゃんが歌う姿も思い出した。
右手を上から斜め下に振り下ろして・・・
おばあちゃんは耳が遠かった。
それは、おばあちゃんが子供の時かららしい。
障がい者みたいなことになるようだ。
でも、子供の私には耳が遠くても、会話はジェスチャーでも出来るし、
コミュニケーションの不自由は感じていなかった。
トイレ怖い
おばあちゃんの家は風呂と汲み取り式のトイレが外にあった。
夜は、(昼も)モチモチの木の豆太じゃないけど
おっかなくて一人ではトイレに行けなかったから、
必ずおばあちゃんを起こしてついてきてもらったのだ。
勿論ドアは空けっぱなしだった。
「プリンとコロッケ」
おばあちゃんに、
「なにが食べたい」
と聞かれて、
毎回同じ回答をする私だった。
おばあちゃんの家で出してくれるコロッケがとても美味しかった。
加ト吉のコロッケだった。
おばあちゃんの畑
連れて行ってもらったことがある。
当時、蚊もコバエもあらゆる虫がダメだった。
畑の中に立つと
ゴム草履(昭和風に)をはいた私の足にありんこが大量にはってきた。
それだけのことで私は大パニックだった。
それ以来、おばあちゃんの畑の土の上には立った記憶がない。
「わーぁ。バカみたわい。♪」
と、かわいらしく言う。
今風に言うとムカつくときにそのように言う。ハズ。
たぶん全然、ムカついてないのだ。
本当に穏やかな人だった。
勿論私も怒られたことはない。
怒ったことはあったのか?
母に聞くと、厳しかったというが信じがたい。
読み間違えでもない
そんなおばあちゃんはたまに東京にある我が家に泊まりに来る。
特急のあさまで上野まで、上野から乗り換えて一つ目の駅だが、
乗り過ごして
「アキバハラ」
まで行ってしまったとか言っていた。
「???」
ってみんなで爆笑したけど
秋葉原
秋葉・原(あきば・はら)とも読める。
だから間違っていないとも言える。
そっくり
あるとき東京の我が家の近くで
おばあちゃん?みたいな人を見た。
痩せたからだと、白髪がグレーっぽい髪。
顔のしわの形。
表情。
違うところを探して認識するのが難しい。
その人はバタヤと言ってリヤカーに段ボールを集めて(それを売って?)生活をしている人だったと記憶している。
あまりにそっくりだったから声をかけそうになったけど。
それにどう考えても、こんなところにいるはずがない。
人違いだ。
違う時に母もこのそっくりさんを見ていた。
それで、そっくりな人がいるよねーーと言う話になったことを覚えている。
実の娘の母が
「おばあちゃんかと思った」
と間違えるくらいだから
相当そっくりなのだ。
その後も何度か見かけて
そのたびに、元気そうだと
おばあちゃんを思い出し
おばあちゃんも元気だろうと思えた。
ある夏の日に
庭のからたち木には、実がなると話してくれた。
夏にしか行ったことがなかったので
実がなるところは見たことがなかった。
出来たら見てみたい!送って欲しいという私のお願いをきいてくれて
確か寒くなるころに送ってきてくれた。
もう、どんなのだったか覚えてないけど。
その年の冬におばあちゃんは亡くなって、
からたちの木も枯れてしまった。
あの頃の私は
誰にも言えなかったけど、
私のせいって心の片隅で思っていたのだ。
私が欲しがらなければ実をとって木が枯れなかった。
木が枯れなければ、おばあちゃんも・・・
私のせい
そんなはずないって今は分かる。
本当に優しいおばあちゃんだった。
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